必読!! 7/23トークイベント「石巻に石ノ森萬画館ができたワケ」レポート

2021年7月23日(金・祝)、石ノ森萬画館は開館20周年を迎えました。
今回は開館記念という事で、「石巻に石ノ森萬画館ができたワケ」をテーマに、今から26年前(1995年)の石ノ森章太郎先生との出会いから、石ノ森萬画館が出来るまでの経緯を中心に、当時のキーマンとなった方々をゲストにお招きして、トークイベントを開催しました。

 


 

※左から順に
黒木正郎(建築士)
星雅俊(石巻市議会議員)
木村直巳(漫画家)
阿部紀代子(割烹八幡家女将)
木村仁(株式会社まちづくりまんぼう代表取締役社長:司会進行役)
尾形和昭(協立塗料代表取締役社長)

(木村仁)
宮城県石巻市に石ノ森萬画館が開館して、20年経ちますが、今の子供達にとってみれば萬画館ってあって当たり前っていう風に思ってる人も多いのかなと、でも萬画館を作る時にはやっぱりいろんな思いもあったし、時間が経ってくると忘れられつつあるかなと感じます。
そういったことをこの20年の節目のタイミングでもう1回自分たちも含めて考え直して伝えていきたいなと思いますのでよろしくお願いします。

(阿部)
市内で割烹やってます阿部紀代子と申します。
萬画館と当時の石巻市長がマンガランド構想を打ち上げた時から、いろいろ民間側として関わらせて頂いております。今日は色々お話ができればと思いますのでどうぞよろしくお願いします。

(木村直)
漫画家木村直巳です。今日はマンガジャパン所属という事で列席させて頂きます。
マンガジャパン(※以下、マンジャパ)はストーリー漫画が「じゃりマン」とまで呼ばれていた時代に、石ノ森先生達が一念発起してストーリー漫画家だけの団体を作るっていう形をとって始まった団体です。
僕はこの団体の初代事務局長の原さん(故人)に色々やらせて頂いて、萬画館の立ち上げに関しても、石巻の歴史の本を描いたり、市民運動のお手伝いをしたりしておりました。よろしくお願いします。

(星)
現職で石巻市議会議員をさせて頂いております。
私はこの萬画館に関して、今から27年前係長の時代の担当者でした。
今、現状を見て誇らしいのは、萬画館は公設民営なのですが、石巻市の行政施設の中では一番収支のバランスが断トツに良いんですよ。本当に運営しているスタッフの皆様の頑張りと思ってまして、大変非常に誇らしく思っています。

(黒木)
当時は萬画館の建物の設計をさせて頂きました。
設計の仕事は出来上がったら、関係が終了するのが常なのですが、縁あって石巻は今でもお付き合いさせていただいております。すごく魅力的で街の暮らしを作る上でも大きな教材になると思ってます。

(木村仁)
今回のテーマは「石ノ森萬画館が出来たワケ」について話を聞いていきたいと思います。

まず、なぜ石ノ森萬画館が出来たのかについて、年表を見ると、1995年の6月に田代島で市政懇談会を開催。
市長挨拶の中で「マンガアイランド及びマンガ記念館の構想を島民に表明」とありますけど、この辺りは星さんが担当されてた頃なんですかね?

(星)
これは26年前ですよね。
石巻市に離島の田代島があって、そこで行政懇談会があって、当時の市長が漫画関係の事業を押し出したんです。
その年の5月に市長からマンガランド構想を作れという指示を受けてました。
実は聞いてみると、石巻市にある日本製紙がマンガジャパンの賛助会員になってまして、そういった関係で、(日本製紙の工場長が)漫画の魅力に関してお話になって、それが当時の石巻市長の方に伝わって指示が来たようです。

(木村仁)
もうその場で(構想について)合意した?

(星)
(7月の市長との懇談では)石ノ森先生は細かいことは言わずに、分かったと了承してくれました。

(木村仁)
この時は民間の方での動きはあった?

(阿部)
当時、石巻市内では、様々な街づくり団体が活発に活動している時期で、やっぱり川を活かしたり水を活かした街づくりをしようと取り組んだりしていた時期だったんですけども、そこに突然新聞に「マンガランド構想」って出てくるわけです。それで、市長に何が起きたんだろうって思うわけです。

私が属していた21石会という団体は「否定する前に学ぼう」という姿勢の団体でしたので、まず市長に市政懇談会を申し込んで21石会として「なぜ石巻で漫画なのか」っていう事について初めに聞かせてもらいました。
市長のいろんな計画を聞いて、マンガの可能性を強く感じて、「石巻に新幹線を引くことは出来ないけども、マンガの力を借りれば何か楽しい事、素晴らしいことが出来るんじゃないか」という考えが広がりました。
それでも当時は、団体の内部でも「なぜ漫画なんだ?」っていう意見も相当あって、とりあえず、漫画と地元の距離を近づけるために「地元の民話を漫画で伝える会」という団体を立ち上げて、地元に伝わる民話を使ってもう少しその漫画などに親しんでもらおうという活動を民間側で始めました。

(木村仁)
それが、1996年の8月ぐらいの話ですよね?
でも、突然紙面で「マンガランド構想」を発表して、市の内部でも「エエッ?」ってなってたと思うんですけど、市民の方でも初めて聞いた時は同じような反応だったのでは?

(阿部)
本当に新聞発表(が最初)ですもんね。

(星)
それで、基本構想から作り始めるわけなんですけども、今では考えられませんけども、その時、市役所サイドで「マンガを活かしたまちづくり」について市民アンケートを取ったんです。そしたら、それが市民は30%賛成反対も30いましたね。残りの40%は分からないと、それがテレビでも報道されました。

(木村仁)
今だと全国的にも漫画とかアニメで町おこしをしている所っていうのは数多くあって、
その実績も認められている部分もあると思うんですけど、その当時っていうのはどうだったんですか?

(星)
当時も結構ありました。
秋田県の増田町(現・横手市)それから宝塚市の手塚治虫記念館、高知県香北町(現・香美市)のやなせたかし記念館、モンキーパンチ先生の出身地の北海道の浜中町とかで、当時のマンジャパの原さんと視察にいきました。

(木村仁)
石巻では施設としての萬画館はありながらも、「町おこし」というもっと広いエリアでの取り組みを狙っていたと思うのですが。

(星)
そこが紆余曲折ありまして、当初はマンガ家の先生方は、萬画館を客寄せとかそういったもの使っちゃおかしいんじゃないかっていう声がありましたが、行政目的としては「人材育成施設」という事で進めていました。
それでプランニングを進行している段階で、中心市街地活性化法(中活法)が出来てきたあたりで、次第にそちらの方向に切り替わってマンガを活用して町おこしをしよう的な要素が強くなってきたんです。

(木村仁)
私が入社したのが2001年なので、ちょうど萬画館が出来た時なんですね。
その時に色々と、研修などで教えられた時には萬画館の目的は三つあって

①一つは「人材育成」、地域の人たちと漫画的発想を生かした人材育成
②中心市街地活性化
③産業振興

の三つを柱にしているって事は教えてもらいました。
人を育てながら街を育てて、経済を育てるということを教えられてきまして、いまだにそれは萬画館の基本方針としてやろうとしているところです。
とはいえ、市民の7割が「どうでもいい」「反対」みたいな感じだった中で、市民運動して仲間を増やしていく活動を仲間と一緒にやられてきたんですよね。

(阿部)
まず個別に皆さんに「何を目的に進めているのか」をお話をして周ったっていうのが一番最初の取っ掛かりですよね。
それで、2~3人のグループや10人から20人ぐらいのところに、マンガジャパンの原さんを中心にお話をしていただくという事を繰り返していました。
ですから、市会議員さんの各会派にそれぞれ回ってお話を聞いてもらったり、多分初めて全員協議会とかっていうところで、民間が市議会議員さんにマンガランド構想の説明をするというそういう場も設けて頂いたりという事で、とにかくその理解していただく事に尽力して、加えて、その民話の会を中心に街の中でイベントなども行って普及活動に努めていました。

(木村仁)
向こうの方にある写真が平成9年の7月にマンガバンク、元の社会福祉協議会ビルのところですね。
石ノ森先生が来てくれてイベントを開催していますけれども、こういう風な活動を多くやられたんですね?

(阿部)
はい。何かガチガチとするんじゃなくて、とにかく緩やかに人が集まって漫画を読んだり絵を書いたり、
・・・で、時々その民話を聞く会だったり、音楽を聞く会だったりっていうことをしながら、人の集う場所、今思えばそれが萬画館のイメージだったんですかね?(尾形をみながら)

(尾形)
街に萬画館がきたらどんな事ができるかを典型的な出来る範囲のプログラムをいくつも立ち上げて試したんだと思う。
ワークショップとかではなくて、手の空いている方が緩やかに参加する感じでした。
ですから、近所の商店街からイルミネーションを借りて飾ってみたり、カブトムシもらってきて、子供に配るのに飼っていたら、一晩でみんな逃げて会場中カブトムシを拾いに回ったりとか、まあいろんなことをやりました。


(木村仁)

一方ではその役所の方でも、そういう風な計画っていうのは着々と進んでいたっていう感じですか?

(星)
役所的には、まずは設計の手前のプランニングの基本構想を検討してみようかというレベルでした。

(木村仁)
この頃になると大体萬画館の形、そういったのもプランが出来てくる頃なんですか?

(黒木)
この頃はですね、「マンガッタン島」っていう名前がね、我々のところに段々伝わってきて、今の萬画館がある中瀬地域は川にある中洲にあるので、とにかくそこに建設するにはどうしたらいいかなっていう話がチラホラ出てきて、「まぁ、やるんだろうな」とか「できたら面白いだろうなぁ」とか、まだそのぐらいの感じです。

(木村仁)
石ノ森先生自身も96年の年表を見ると、マンガジャパンで事務局が石巻市を視察して田代島に行かれていたりとか、
あと逆に(こちらから)12月に東京に行ってヒアリングをさせて頂いたりとか、あちらの9年の7月のマンガバンクとか、随分石ノ森先生も石巻には来て頂いてたんですよね。

(阿部)
田代島に行った時には私たち(民間側)も勝手についてっちゃったんです。
それで石ノ森先生が田代島を島の方に案内して頂いた時に、例えば花を一つ見ても、ただ「花が綺麗だね」って終わらないで、その向こうにいろんな景色とか思いを見る、そういう石ノ森先生とご一緒させて頂いて、やはり漫画家の先生方の観察眼ってもの凄いなという風に感じた覚えがあります。
ですからもう、一つのものを見て私達では計り知れないようないくつものものを見てらっしゃるなぁという事ことがありました。

(木村仁)
僕は石ノ森先生とお会いしたことがないです。今、萬画館で働いているスタッフの中で石ノ森先生にお会いした人はいないんですが、こういう話を聞くと、なんとなく自分の中で想像してですね、こういう先生だったのかなって勝手に想像してしまいますね。

そして97年頃になると、漫画家の先生方も沢山の協力をしてくれて、マンガランド構想の方も進んでいって、順風満帆なような感じで進んでいるような気はするんですが、98年の1月に石ノ森先生が亡くなってしまうという、大きな出来事があるんですけど、その時っていうのは星さんどんな状況だったんですか?

(星)
先生が亡くなるちょっと前かな?行政的には実施設計と工事費の財政工面が始まるんですね。
だからお金がなければ出来ないのであって、その時に役所内でもこんな財政状況苦しい時に、進めてどうなんだっていう声もあって、市長も気持ちが落ち気味な時もありましたが、石ノ森先生が亡くなる前後から市民の方々の運動がどんどん始まりましたね。
そこから随分盛り返したような記憶がありますが、阿部さんどうですか?

(阿部)
市長の気持ちがだんだんトーンダウンしていった時期があったんですけれど、当時仲間になっていた7人の方と、「是非実現させてほしい」って市長の自宅に押しかけた事もありました。(笑)

・・・それで、意外と珍しい民間サイドから「行政の計画を応援します」っていう風にやってきて、ちょうど民話の会が宮城県から「地域づくり大賞」を頂いて仲間たちと一緒に宮城県仙台市に赴いて表彰状をもらいに行った帰りの車の中で、マンジャパの事務局の原さんから電話が掛かってきて、石ノ森先生が亡くなったって聞いてすごいショックを受けた記憶があります。
ちょうどその頃「マンガランド構想をみんなで広げる会」をつくるという事で、その前日だったか前々日だったかに集まりを持った直後でしたので、やはり地元でもどうするんだっていう事で、バンバン電話が掛かってくるわけですね。
とにかく今晩集まろうということで、集まってそれでもやっぱりみんなでやろうと、当時商店街の方々とやりましょうということで進めることになりました。
そのあと、マンガランド構想を推進するために署名活動も行って、2万5千名以上の署名を市に提出に行ったこともありました。

(木村直)
石ノ森先生が亡くなられたタイミングで、市民活動として大きく動き出したという感じなのですか?

(阿部)
そうですね。亡くなられる直前にそういう風に動こうって言っていたので、ちょっと表現悪いかもしれませんけど、弔い合戦みたいな様相を呈したのかなと思うんですけど。

(尾形)
もうちょっと時間を掛けて、市民と漫画の遠い距離を縮めていこうという活動をずっと地味にしてたんですけど、先生が亡くなって市の財政の厳しい事もあったのでスピードアップをしないといけない。
頓挫してしまう恐れもあったのでバンバンと仕掛けをして、マスコミにどんどん載せてもらって行くという戦略に切り替えたんです。

あとは、この「マンガランド構想をみんなで広める会」の1500名の会員(の票を集める)というと、市議会議員に当選出来る。
それから25,000だと県議会議員に当選できるというそのくらいの影響力のある数字をつくる事を目標にして、数字をつくりながらアピールするという戦略も取っていった。

(阿部)
ですので、私は戦略と全然よく分からなくて、ただ好きなだけで動いている自分と(戦略的な)尾形さんが中心となって進めている、そういう雰囲気だったと思います。

(木村仁)
でも、そういう風に気運が下がってきたところを、またこう上げていくって本当に並大抵のことではないと思いますね。

(阿部)
でも、星さん、市役所的には気運が下がっているっていうのはあまり表には出なかったですよね。

(星)
(うなずく)

(木村仁)
この頃僕はその場にいなかったので分からないんですが、当時は石ノ森萬画館を建設する「マンガランド構想」自体が駄目になるぐらいの雰囲気になっていて、そこを「何としてもやるんだ!」という強い気持ちを持って実現に向けて進んでいったっていう風には聞いてましたけど、公民館とか色々な場所を回って漫画の可能性だったり、漫画のまちづくりってこういうもんだよって説明して回っていたのもこの時期?

(阿部)
はい、この時期。
マンガジャパンの初代の事務局長の原さんと石ノ森先生っていうのは、手塚治虫先生の最後の弟子と最初の弟子なんですね。
その関係で石ノ森先生がマンガジャパンを立ち上げる時に、原さんがお手伝いをするということになったそうです。
原さんにしてみれば、石ノ森先生は大好きな方なわけですから、本当に色々なことで石ノ森先生のサポートをしてましたし、原さんが石ノ森先生の絵に対する想いってすごく大きかったと思うんです。

我々は石巻でだけ活動していると、地域しか見えなくて、大きな視点でちゃんと見えてなかったりするんですけど、原さんはベンツで突っ走っていくような勢いのある方で、こっちは田舎者なので、自転車で追いかけていくぐらいの感覚でやり取りをずっと繰り返してきてたんですけど、それでもやっぱり原さんの石ノ森先生に対する想いがなかったら、我々だけでは決して実現出来なかったんじゃないかなという風に私は今でも思ってます 。

(木村仁)
石ノ森先生が亡くなって、気運が下がりつつあった状況だったのが、「これが大逆転になった」っていうのはどの辺のタイミングだった?
市議会全員協議会あたりですかね?98年ですか?

(星)
はい、98年の6月に中心市街地活性化法が施行されて、国の補助金を取りに行ってますから、その前なんですよね。
だから1月から春先の4月頃まで、この間で多分色んな転機があったんですかね。

(阿部)
萬画館に向かう商店街沿い(橋通り)に我々の拠点となる事務局兼情報発信地の「持ち込みカフェ・墨汁一滴」を立ち上げました。
みんなで「毎月1万円ずつ出してでも一年間やろう」っていうことでそこを開いたんです。
中身は原さんがご自身で所持しているお宝を販売したり、1000円ポスターでカンパを頂いたりとか、コーヒーを出してコーヒーのカンパを頂いたりという事で運営をしていって、「ここに来るとマンガランド構想の事も漫画の事も分かる」みたいな環境づくりを行いました。
そして、お金の出入りについては、毎月収支を壁に貼り出しておく、そういうやり方で2年ぐらい直営店として活動を行いました。

(木村仁)
皆さんご存知ですか?「墨汁一滴」は、今の橋通りCOMMONの辺りにありました。1階がグッズショップになっていて、木村直巳先生はじめ色々な漫画家の先生方からも協力頂いて、サイン色紙を販売したり、グッズを販売したりして、それを運営の資金に充てたりしていて、2階は持ち込みカフェっていうことで、子供達が絵を書きに来たりとか、大人もお茶を飲みに来たり、漫画談義に花を咲かせたりとか、そういう風な場所でその活動の拠点だったところです。
今、萬画館のグッズショップの名前も「墨汁一滴」なのですが、名前を引き継いで萬画館内でグッズショップを行っているんです。
ここがこの頃の活動拠点だったわけですよね?
文字は矢口高雄先生直筆、名付け親は水島新司先生。

そうやって、一時はヤバいなあという状況になりながらも、またその市民の熱意、あと役所との共同で気運を盛り上げていったというところがございます。
さらに、この漫画の活動拠点ということで墨汁一滴を作って、色んな仲間を増やすための活動もまた引き続きやって行ったという話になります。

ここで、色々なアイデアが出て来るんですよね。ゴルゴのコルク抜きとか、あれ今でも行けるんじゃないかなとも思います。(笑)
「狙ったものはこれで抜く」あれが正に“萬画的発想”じゃないかなと思います。
あとはまちなかにあった時計店でマンガの時計を作ったりとか、仮面ライダーの絵ハガキを発売したり、
石巻信用金庫さんで「仮面ライダーの通帳」と「ロボコン」の通帳を作ったりして、今では考えられないような企画をバンバンやっていたんですけども、あの辺っていうのは「マンガランド構想を広げる会」でやってたんですか?

(尾形)
そうです。

(木村仁)
そのような活動をしながらも、萬画館や田代島だったり、計画の方も同時並行的に進んでいったと思いますが、
黒木さんはその設計に携わっていたと思うんですけど、この萬画館の丸い宇宙船の形状はどういう風に決まっていったんですか?
石ノ森先生がデザインされたって聞いているんですが・・・

(黒木)
石ノ森先生とは一日だけお会いしたのですが、その時に割と一瞬でですね、
ここに宇宙船が着地して、石巻があんまりにも良いところなんで、そのまま宇宙船が居着いちゃう・・・そういう話にしちゃおうって、
石ノ森先生がそういう話にしていこうよって言ったんです。

石ノ森先生は「漫画の発想って全然関係ない二つのことを組み合わせて作るんだよね」って、その時おっしゃってました。それをよく覚えています。

その計画があって、その後基本設計が始まる時に、仕様書の中に「形態を宇宙船型とする事」って明記するように言われた記憶があります。(笑)
その時にこれは本気だって思いました。

(木村仁)
萬画館の設計で苦労したことは?

(黒木)
あの頃はコンピューターで図面が描けるようになった始まりの頃で、今は当たり前ですよね。
PCで図面が描けるようになったことで、萬画館の楕円形の図面が描けるようになった。
それがなかったら多分絶対出来なかった。(丸型は出来たかもしれないが楕円は絶対無理だった。)
それよりも、もうちょっと後の話だけど、川の中州でしょ?内海橋に重量制限があったんで、どうやって運搬するか、そっちの方がよっぽど難しかった。

あの形で鉄板で丸い形状を造船所で作って、船で浮かべて、引っ張ってきて船で揚げるのをイベントにしようって原さんは盛り上がってたけど予算的にも難しく結局は普通に運搬した。

(木村仁)
鉄板は船で運んだ?

(黒木)
材料は小分けにしてトラックで運んだ。

(木村仁)
船では運んでない?

(黒木)
実際はコンクリートを流すときに船でミキサー車を運んで作業をしたぐらい。

(尾形)
当時はナホトカ号の事故もあって、サルベージ船の映像がよくメディアで流れていたので、萬画館もサルベージで曳航出来るんじゃないかと関係者間でもずいぶん話をしていた。

黒木さんにご迷惑をかけたのは、「宇宙船(萬画館)を浮かしてくれ」って、みんなでずっと依頼していて、
透明なチューブを設置して上がるようにしてくれって言ったが、無理だという事で、現状のカタパルト(発射台)の様な形にした。

(黒木)
構造だとか避難ルートがどうだとか制約があり、積み重ねてガラス貼りの現在の形になった。それで勘弁してもらった。

(阿部)
原さんがよく5mの津波にも耐える作りにしてあるっておっしゃっていて、
予言したわけじゃないんだと思いますけど、震災が起きた時には功を奏した。

(黒木)
最初は萬画館の建物は「原画の収蔵庫」という注文だったが、川の中州に収蔵庫作っちゃマズいだろうって悩んだが、場所は場所、機能は機能、組み合わせたらどうだ?って「萬画の心」で組み立てていった。

きっと洪水が来るので、当時の西條さん(※前・街づくりまんぼう社長、昔、現在の萬画館がある場所に自宅を構えていた)に、どのくらい洪水が来るのか伺ったところ、「チリ地震津波の際は6mの津波がきたからこのぐらい」という事で、水面から約8mの設定にした。

(木村仁)
それがあり萬画館内の原画は無事だった。

(黒木)
洪水だと上流から来る。
洪水は10年に1回ぐらい。
津波は200~300年に1回ぐらい。(下流側からくる)

ちゃんと両方を考慮しておいて良かったと設計に携わる者としては今でも感じる。

(木村仁)
いろんなピンチがあっても、誰かしらの手助けがあって20年を迎えられたことを改めて感じる。

98年の4月以降になると、萬画館が出来るのは決まりになっていて、
完成に向けて色々盛り上げていくっていう感じなのかなという風に思っていますけど、このあたりになると、マンガジャパンの先生方も頻繁に石巻に来て来れるようになって、学校で講演会を行っていただいたりとか、色々やって頂いたと思うんですけども、その中で木村(直巳)先生が記憶に残ってる事はございますか?

ちなみに、田代島も「マンガアイランド」という事で、一番最初2000年にちばてつや先生と里中満智子先生がデザインしたマンガロッジを建設されて、センターハウスという場所が同地区にあって、そこが活動拠点で子供たちのマンガ教室とかいろんな野外活動とか行ったりしてたんです。

(木村直)
僕は最初ではなく、2回目に更に小さいロッジを3台つくった際に、志賀君江先生や御茶漬海苔先生とともにロッジに絵を描かせて頂きました。

(木村仁)
その後、99年には「石ノ森萬画マンガ空想祭」を第2回まで開催していますが。

(阿部)
仙台で色々なマンガやアニメのキャラクターに扮してパレードをして、その後に石巻グランドホテルで第1回の萬画空想祭を行いました。
その席でモンキー・パンチ先生と中山星香先生にお越し頂き審査をしていただいて、この中で優秀賞を決めたっていう催しなのですが、実は、この企画は漫画でどんなことが出来るかっていう実験的な催しだったんです。
この催しの1回目は仮装が主でしたが、2回目の時は同じ空想祭でも、色々なマンガを使ったグッズのアイデアとか頂いて非常に面白い作品なんかもありました。
この催しは第2回で終わりましたが、その時のコピーが「とびだせ夢を超えるモノ」っていうコピーで非常に良いコピーだなーってその頃思ってました。

(木村仁)
その前に戻ってもらうと98年の7月に「漫画ストリートフェスティバル」っていう原画展を旧ピースボートセンターでなんとやっておりまして、
しかも石ノ森章太郎、矢口高雄、モンキー・パンチ、ちばてつや、里中満智子っていう、国内を代表する漫画家の原画展を空き店舗でやっていたんですね。


(阿部)
石巻日日新聞さんに宮城県がここに公園を作るって掲載されたんですね。
それで、御影石で水玉を浮かせて何百万円っていうモニュメント作るって言うので、これをなんとか漫画にしてもらえないかというお願いをしに、県の土木事務所に星さんに連れてって頂いた覚えがあります。

 


(↑上の画像)
これは萬画館開館の1ヶ月前の2001年6月ですね。NHKの番組で1000人が力を合わせて何かをやるって言うのを地域別に競う番組ですよね。
全国4箇所ぐらいの地域の催しを競い合って、グランプリを決める番組で、そのうちの一箇所として石巻でも何かやろうって話になって、マンガで灯ろうを作ってそれを千人集めて萬画館までの通りを照らそうという催しをしたんですよね。
一つの灯りは小さいけど、たくさんの光が集まれば、光の川が生まれて街を照らすことができるっていうストーリーを作って開催したんですよね。それで、その大会の中で見事グランプリを勝ち取った!!
そういう風な事も行ってオープンに向けて盛り上げていって、2001年の7月23日、20年前の今日ですね、石ノ森萬画館が開館することになりました。

(木村仁)
ざっと駆け足で紹介させて頂きましたが、石ノ森先生との出会いから、それをチャンスだという風に思ってなんとか物にしようということで、みんなが集まって知恵を出して汗をかいて、当時は正直出来ないんじゃないかとか無理じゃないかっていう風に言われてましたが、何とかそれを信じてやり続けて夢を叶えたっていうのが、石ノ森萬画館なんじゃないかなという風に自分は思っています。

それでは最後に皆様から、これからの萬画館に期待すること、石巻に期待することなど、何か一言ずつお願いできればと思います。

(阿部)
萬画館が建設途中に、街づくりまんぼうが設立されて、一緒に活動してきた商店街のおじさんと内海橋を渡っている時に「紀代ちゃんや、俺達大変なことしたよな。だって、15億の税金使って、これ(萬画館)建てでもらった。だから、しっかりやってかないと駄目だよなぁ」って、おっしゃっていたんですね。
・・・で、その気持ちを共有出来るから一緒に頑張ることが出来る、信頼できる、それが仲間なんだなぁと思わせてもらった。

そして別のおじさんからは、「転ぶ時は前に転ぶんだ。だから俺はこれをやるんだ!」って言ってくれた事が非常にありがたかったし、そういう仲間がいたからこそ、震災時も頑張れたんだなという風に思っています。

それで、やっぱりマンガ家の先生方って、すごく色んな事をきちんと調べて作品を作られてます。
そういう先生方と一緒に街をつくっていけるっていうのが凄い貴重な経験なんだなぁって、今でも思っています。
「マンガで街をつくるんじゃない、萬画的発想で街をつくるんだ」っていう事が大事でそういう風に今でも思って活動しています。

(木村直)
マンジャパ事務局の原さんから僕が依頼を受けて、「お前石巻の歴史を書け!!」と言われてどっさりと資料を頂いて、他の仕事もあって、モタモタと仕事をして星さんなんかにもご迷惑をお掛けしてたんですけれども、原さんから「お前、この原稿あげなかったら萬画館OPENできないから!!」って言われて真っ青になって頑張ったって思い出があるんですよ。

だからこそ、萬画館が出来上がった夜に花火が打ち上がったんですけれども、その時に原さんと目があって、にっこり笑ってくれた時には感無量でしたね。
それから萬画館は僕の故郷になっています。だからこれからもここがある限り僕は頑張れると思います。
僕みたいなのは、特殊な例だと思うんですけど、世界中の漫画家がここに集うような日がいつか来ないかなってちょっとね、夢見ているんです。それは、これからの僕らの頑張りだと思うので頑張ります。

(星)
萬画館に関わらせて頂きまして、強烈な人とも出会いましたし、それをバネにして色々な事も覚えさせられました。ありがとうございます。
一つお願いあるのが、萬画館は北上川の真ん中にあって、こういったすごいロケーション中にあるので、ぜひ萬画館の方には、今もやっていますけども、イベントなどでもっと賑わいを創出して頂きますようお願いします。以上です。

(黒木)
建築の仕事をしていると、街づくりとかすごく関わる事が多いんです。
けども、東京でもどこでも街づくりっていうと大体大きいマーケットを狙うんですよね。
メジャーなマーケットや今時の女性は何が好みとか・・・
多分(私見ですが)、萬画館ではそれをなさらなかったのがよかったんだろうなと感じています。
すごくニッチだけど、あの熱心なコアなファンがいる所、そこを攻める、フォーカスすると熱心な仲間がつきますよね?
そういう街づくりの仕方のすごい先験的な事例だったのだろうと思っています。
世界中に「こうやってやるんだぜ」って言えそうな気がします。

今インターネットの時代ですから、世界中のコアなマーケットから、最初はアクセス。
で、その次はただイベントを覗くだけ。それで次に本当に来館(来石)しちゃうという風になるんじゃないかと思うので、このやり方を世界に広めて下さい。
是非大きなムーブメントにして頂ければと思います。

(木村仁)
(プライベートで)会場にお越しの齋藤市長からも一言お願いします。

(斎藤市長)
黒木さん、私は建築の立場からして、これは津波に耐えられる構造を最初から考えていたなと思ってました。
・・・というのは、皆さん何かと言いますと、1階部分には壁をなるべくつくらないで本当抜けるように、つまりガラス張りにしてありますよね。
そして入口部分もそうですよね。これはですねあの津波のその力に逆らわないでそのままずっと流す事で躯体に掛かる力を和らげることで躯体がそのまま持つ。
これが壁で施工していたら、ひょっとしたら萬画館は残っていないんじゃないかなそういうことを考えていました。流石です。その言葉を申し上げたいと思います。

そして、石ノ森萬画館は石ノ森先生の思いを後世に伝えるべく、これからもしっかりと取り組んでいくと思いますから、皆様で支えて、そして市の行政としてもやっていきますので、共にオール市民でこの「漫画家を育てる」そういう街にしたいと思いますので、よろしくお願いしたいと思います。

ページトップへ